こんにちは、たくみです。
前回は近代以前の哲学をまとめ上げたカントについて学びました。
カントは人間の性質について3つの批判から分析しました。
人間の性質をあぶりだし体系的にまとめ上げたことで
以降の哲学に大きな影響を与えていきます。
その一方で
分割して分析しすぎた故に
人間としての総体が見えずらくなってしまったという批判もありました。
今回はカント批判から始まった「ドイツ観念論」について学んでいきます。
≪参考文献≫
今回の学び
フィヒテ
フィヒテは実は自我と行動は一体となっていると考えます。
フィヒテの考える認知は次の流れでなされます。
自我が自由を求めて行動する
↓
自由を妨げる障害にぶつかる
↓
障害がなぜあるなどを考え、新しい認識を得る
こうして自我という事実は、行為しながら認知を広げていきます。
このように自我と行動が一体となっている構造を「事行」と呼びます。
シェリング
シェリングはデカルトやカントらは
自我に偏りすぎであると批判します。
自然の中に生まれて生きているならば
自然こそがすべての原理なのではないかと考えました。
自然をすべてを生み出す「絶対的同一者」と考えました。
自然は川の流れのように大きな力の動きです。
しかし、川は途中の岩にぶつかると流れが滞り渦を巻きます。
その渦は力をためた後別の方向へと力を開放してきます。
この大きな流れとは別の方向に展開していく力を「ポテンツ」と呼び
学問や芸術などはすべてポテンツであるとします。
フィヒテが主観的観念論と呼ばれたのに対して
シェリングは客観的観念論と呼ばれました。
ヘーゲル
ヘーゲルは「弁証法」という方法を生み出します。
弁証法
ある意見(「定立」)があり、それと対立する意見(「反定立」)があるとします。
それらのどちらかを選ぶのではなく、両方の意見の重要な点を温存しながら
両立させるような新しい可能性(「綜合定立」)を導き出すという方法が弁証法です。
≪例≫
湘南で海が見たい「定立」⇔高尾山で山が見たい「反定立」
→熱海で両方見える!「綜合定立」
ヘーゲルはこの弁証法で様々な哲学的問題を分析していき
最終的に自然や、宗教、芸術などすべてを含んだ「絶対精神」へとたどり着きます。
観念論批判(ショーペンハウアー、キルケゴール)
観念論は新しい哲学の流れを生んだ一方で
壮大すぎて自分の生活に落とし込めないという批判もありました。
その批判を行ったのがショーペンハウアーとキルケゴールです。
ショーペンハウアー
経験できる世界は表象にすぎません。
根底には誰の意志でもない「盲目的実存」が存在します。
その誰の意志でもないところから始まる世界には何の秩序も目的も存在しません。
つまりは私たち人間が生きる目的もありません。
自分という存在に固執すること自体が無意味で
自分に固執することをやめなければいけないとしました。
これを「ペシミズム(厭世主義)」といいます。
キルケゴール
キルケゴールは人間の在り方には3種類あるとします。
「あれもこれも」と享楽的に生きる「美的実存」
「あれかこれか」と不正を指弾して生きる「倫理的実存」
「これ」と神にしたがって生きる「宗教的実存」
大衆は成功者をねたむことで連帯していきます。
しかし宗教的実存の人は他人から独立した「単独者」として生きることができます。
まとめ
今回はドイツ観念論について学びました。
西洋哲学はカントという一つの答えにたどり着きましたが
それでもそこに対する批判が存在しました。
そしてその観念論に対してもまた新たな批判が出現しました。
まさに弁証法的に哲学が発展しています。
彼らの思想がまた次の哲学へとつながっていきます。
次回はこれまでの哲学を大きく壊してしまうような20世紀の哲学について学んでいきます。
※
正直今回は参考文献だけでは理解が難しく
様々なブログや本を参考にさせていただきましたが
どこでも言っていることが微妙に異なっていました。
本ブログは本の紹介が本筋ですので
参考文献に書いてあることをメインに紹介しました。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
また次回もよろしくお願いします。
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