こんにちは、たくみです。
前回からは20世紀哲学3つの潮流のうち
構造主義、ポスト構造主義について学びました。
ソシュールの言語研究から
人間の存在を構造の一部としてとらえる
認識の変革が構造主義へとつながっていきました。
今回は構造主義からポスト構造主義へと向かう
過渡期の人物について学んでいきたいと思います。
≪参考文献≫
今回の学び
フーコー
フーコー自身は構造主義やポスト構造主義の
レッテルを張られることを拒否していますが
その思想はこの文脈に即したものになっています。
レヴィ=ストロースは未開社会について
そこに構造があることを発見しましたが
フーコーはヨーロッパにおいても構造が存在していると考えます。
認知の枠組み
人間の認知はその時代の知的枠組みのなかで機能しています。
例えば生物学が発達していない時代の人はヤモリとイモリの生物学的な差を見ることができません。
日本人が鷹の一種だと思っていたハヤブサも遺伝子学的にはオウムに近い生物でした。
このように人間は時代や社会に縛られた知的枠組みの中で認識を行っています。
この知的枠組みを「エピステーメ(認識体系)」といいます。
これは未開社会に限らず
ヨーロッパでも時代や社会という構造が存在していることを示しています。
近代的自我は幻想
近代国家においては、学校、仕事、軍隊など多くの他者と同じ行動規範をもって生活することが当たり前になっています。
身体的な所作や、時間管理、勉強など
諸制度を個人が積極的に受け入れているのは
それによって、進学、就職といった社会的な生活が営みやすくなるからです。
個人から見ると社会のルールを内面化しているということになり
社会からは個人を同じルールで規格化しているとも言えます。
このような社会が個人を企画していく力を「生の権力」といいます。
社会には「生の権力」以外にも個人を制御する規律があります。
その一つが「性言説」です。
成年男女同士以外の性欲は「変態」と言われてしまいます。
このように性についての正解を作り出し、個人はそれをもとに自分の性欲を規制するようになります。
しかし、近年同性同士の性欲も認められ始めたように、その価値観は絶対的ではありません。
個人は社会の作り出した規律に従う存在であり(=臣従体)
絶対的に自己責任の主体となるような「近代的自我」は存在しません。
デリダ
デリダは、社会に構造が存在することを認めたうえで
そこからの脱却を目指しました。
世の中には「美醜」「真偽」のように
二つの概念を並べた言葉が存在します。
これらの概念は並列ではなく、前者の方が優位という関係性です。
このように序列化された対概念を「二項対立」といいます。
二項対立は哲学の世界でも多用されており
例えば、その一つが「イデアー現世」という二項対立です。
プラトンの思想で登場し
その後キリスト教世界にも大きな影響を与えてきました。
ここにはイデアの方が現世よりも優れているという序列があります。
しかし、実際はイデアは現世を理想化したものから考えられており
その存在の順序は実は現世の方が先立ちます。
そして、イデアは現世と完全に分化することはできず
お互いに存在が依存しあっています。
デリダはこのように二項対立において一見優位に見える関係は
実は人為的なもので、みせかけであるとしました。
存在、神、目的、始源といった概念や
ロゴス中心主義、男性中心主義、ヨーロッパ中心主義
などもこの見せかけからきている錯覚です。
構造自体の存在は認めながら
それが見せかけであることに気づき、そこから脱却を目指すべきだ
というデリダの思想を「脱構築」といいます。
ドゥルーズ
ドゥルーズは、社会の構造から経済のあり方を考えました。
動植物などの分類は
ツリー構造によってまとめることができます。
生物を
「脊椎があるかどうか」
「呼吸が肺か、エラか」
のような特徴で分けていくという方法です。
しかし、実際には種は単独で存在するものではなく
お互いに関係をもって生きています。
人間も体内に大量の細菌がおり
その最近なしに生命活動を維持することはできません。
このようにお互いに関係しあっている構造を
「リゾーム構造」といいます。
リゾーム構造において縦横無尽にひかれた
お互いの関係を示す線を「逃走線」といいます。
一方で経済活動は、二項関係の連鎖で成立しているといいます。
人々が欲しいと思う欲望とそれを満たすものが交換され消費されるという
欲望とものの関係が、出来上がています。
しかし、交換の中で余剰が生まれてくると
それをもとに新たなものが生み出され、それを消費する形になります。
この余剰はいわゆる資本であり、資本は帳簿上の存在です。
実体のない資本が、新しい経済の流れを生んでいるこの状況を
ドゥルーズは「器官なき身体」と呼びました。
ドゥルーズはもう一度世の中のあらゆるものの逃走線を見つけ出し
資本主義という「器官なき身体」を抜け出すべきであると考えました。
彼の思想は学生革命などに大きな影響を与えました。
レヴィナス
レヴィナスは他者の「顔」という存在について考えます。
人間が行動を抑制したり道徳的に生きようとするのは
「顔」を意識してしまうからです。
この「顔」を裏切ってしまうと人間は羞恥を覚えます。
羞恥は自分自身でいることをいたたまれないと感じることであり
自分自身を空虚な存在にしてしまいます。
裏切ることができない他者の「顔」は「絶対的他者」であり
自分に「無限責任」を課してきます。
これまでの哲学は「自我」を中心に世界を意味づけ
それを語っている人の視点で全体の意味を決める「全体性」を生んできました。
レヴィナスはその「全体性」を批判し、個人個人が絶対的他者に委ねるべきであると考えました。
まとめ
構造主義は人間社会が構造であることをあぶりだしました。
どのような構造があるかという課題が哲学の中心課題になっていきました。
ポスト構造主義は、
人間社会に構造があることを認めたうえで
その構造を打ち破ろうとする思想でした。
次回は19世紀後半から隆盛した「近代」を打ち破る
「ポスト・モダン」主義について学んでいきたいと思います。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
また次回もよろしくお願いします。
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